青色茶碗

思考回路をクールダウンさせるために更新するブログ。AM0:00~AM8:00の間に投稿することが多いです。

避けられない消失と無力感

この消失に対する無力感の始まりは、

子どもの頃にあった両親の離婚だったのかもしれない。

 

そばにいてほしい味方がひとりいなくなる。

それだけでなく、大好きな人同士が喧嘩して傷つけあっている。事情があったのかもしれない。もうお互いにもうこの暮らしは耐えられないと話していたから。私が原因ではない、と思いたいのだが。

まだ大人の事情を読み切れない私には、結局明確な理由なんてなにも分からなかった。

 

「私のせいで喧嘩になった」

「私がいるせいで家庭が壊れた」

そう思っていた。

 

今でもその感覚は染み付いて離れていない。

 

学生時代の初バイト。分からないことが多すぎて怒鳴られる日々。庇おうとしてくれる人も何人かいたが、引き離されることが多かった。

 

社会なんて光も希望も何にもないのに、なぜこんな世界に出て働かなければいけないんだよ、と思っていた。

社会の歯車という言葉が大嫌いだ。社会を動かす一員という意味なのはわかるけど、まるで心を持たない物として扱われてる感じがするからあまり使いたくない。

 

高校卒業後の社会人生活がつらすぎて、先生と連絡を取っていたりもした。親との心の距離が適切に保たれていなかったから、何かを話したくても話せず、飲み込むしか無かった。

そんな中で日々の愚痴とか近況を報告できる先生、そして友達の存在が心の救いだった。

 

そこしかなかった。

 

救ってくれるものがなかった。

 

それがよくなかったのかな。

 

 

私にも相手にも別々の時間が流れている。

先生も異動したり生活が変わったり、友達も色々あったりしていくうちに、私の存在がたいして必要とされてない(むしろ煙たく思われてたかもしれない)ことに気づいて、徐々に連絡頻度は減り、ほとんど繋がりを絶った。

 

これから頑張っていこうとお互いを励ましあっていた同期は、別の部署に配属されて間もなく退職し、職場環境が合わなかった私も徐々に体調を崩して退職。それを機に同期同士の繋がりも消えていった。一緒に頑張ろうと言っていた同い年の同期に、自分が背負っていた苦しみが代わりに降り注ぐことになってしまったことが申し訳なくなってしまい、連絡するのが怖くなった。

 

 

「職場はお友達を作りに行く場所では無い」

周りの大人が言っていたことを学生時代から信じて、自分に言い聞かせてやってきたけど、間違っていたのか、私の加減が下手なのか⋯いや、それはそれで間違ってないと思う。

 

でも、職場で仕事としての味方が出来ても、仲間ができても、その人は組織や待遇に不満を持って辞めていった。

みんなそうだった。

条件がいい所が見つかったらそうなるよね。

不快な場所では働きたくないものね。

人それぞれに事情があるから、自分が原因になって辞めた訳じゃないことぐらい分かっている。

分かっているのに。自分を責めてしまうことをやめられない。

 

自分は組織を統括する長でもなんでもないけれど、それでも、もっと自分に出来ることはなかったのか?と考えてしまう。

 

同時に、「また味方が消えた」というかなしみと苦しさを感じる。

 

そもそもわたしは、群れを作って意味もなく騒ぐようなことにはひとつも憧れていない。

「自分の実現したいことには人が必要なので協力していただきたいです」という意味での仲間だけいたら。あとは、立ち直りにくい問題に巻き込まれた時に「ドンマイ」の一言をかけてくれるぐらいの、そのようなビジネスライクな仲間がいたら。

(本当は「仲間」という言葉を安易に使いたくもないのだけれど)

 

協力者については、無理!って言われたら、じゃあひとりでやる!ってなれる。いずれ自分が壊れてしまう原因になりうるのだが、まだ耐えられる気がしてしまう。

一方、ドンマイの一言をかけてくれる人の存在は大切にしたいのに、自分が関わってないところで問題が起きたり不満があったりして、いなくなってしまう。

これがかなりやられる。

物としての社会の歯車感が出てしまうからだ。

 

自分がやっている仕事はグループを作って進めていくようなものではなく、基本的に個人での作業になるため、協力者はいない場合が多い。そんな中でなにか自分から発案した時に背中を押してくれる人がいなかったりする。それだけならまだいいが、自分の発案が間違いだと言うぐらいの勢いで潰そうとしてくる人達がいると、数で負ける。ものすごく納得がいかない。第三者を入れたら私は間違ったことを言っていなかったということになる場合も多いが、第三者が入るまで責められて潰されかけた苦しさと傷が消えることは無い。

そこにドンマイと声をかけてくれる人も居ないとなるとかなり詰みの状態だ。

 

 

 

 

⋯と、ぼんやりした愚痴のようになってしまったが。

 

味方だと思っていた人が急に消えてしまうという場面をたくさん経験してきた。

安心を感じると警戒も追いかけてくる。

頼りにしてはいけないと思うからひとりでやろうとする。

ひとりで抱えきれなくなって助けを求める。

助けを求めたら断られ傷つけられる。

ドンマイの言葉をかける人は既にいない。

もう何も信じられない気持ちになる。

 

家にいても、急に家が壊されるかもしれないからと怖がるような、そんな不安定さに近い。

 

だから神経が休まらない。

ホッと安らぐ場面も少ない。

それもまた体調を崩す原因になったりして。

 

そして、そもそも生まれてきたこと自体が親だけでなく他の人たちに迷惑をかけて不幸にさせてるんじゃないかと、過去を振り返り自分のやってきたことすべてにバツをつけたくなる。

 

 

そんなところを無限ループしている。

 

 

もう仲間なんていらない。

そんな気持ちになる。

いなければ苦しくなるくせに。

 

 

生きるために大きい買い物がしたくて

「なんかもうダメになったら、自分の電源を自分で引っこ抜いて全部終わりにしよう」

 

そんな言葉が頭の片隅にぼんやりと浮かんだ。いけないことのような気がする。

深刻さがなく、楽観的に考えちゃっているあたり、危ういのではないか。

こうしてまだ冷静さを保てているから逆に安心なのだろうか。

それとも、冷静だろうとそんなこと考えている時点で危ういのか。

 

 

 

同時に、数ヶ月前から考えていることがある。

「何か大きい買い物をすれば、それを維持するために生きなきゃいけないという義務感が生まれ、もう終わりだなんて考える隙も無くなるのではないか」と。

大きい買い物と言っても、もちろん欲しくもない高価なものを無理に買おうというわけではなく、昔から欲しかったのにずっと手を出してこなかったものを買ってみようか、ということだ。

 

これは、自分の命をかけてギャンブルしてることになるのか?

いや、ちょっとスリルがあったほうが楽しくなるんじゃないのか?

 

 

迷う。

 

「迷うくらいなら、やめるべきだよ」

って、誰かに言われそうだな。

誰に?

 

 

「迷うくらいなら、やっちゃいなよ」

って、誰かが言ってくれそうだな。

誰が?

 

 

 

 

 

私の生まれ育った家は、決して裕福ではなかった。

周りの同級生は高校受験の時に、私立の学校を滑り止めにしていた中で、私は定時制高校を滑り止めにしていた。

結果的に第一志望の公立高校には落ちた。でも定時制高校での生活は幸せだった。

 

専門学校か大学に進学したい気持ちもあったけれど、アルバイト代は自分の最低限の生活費として毎月消えていたし、奨学金とか何年もかけて返済するのは自分の心がもたない気がしたので、就職する道を選んだ。

 

以降、一人暮らしをする時や、家電を購入する時など、

万単位でお金がかかるものは極力、一括払いするようにしてきた。

携帯代は毎月の分割払いにしてるけど、それ以外は基本的に一括払い。

ギリギリ一括払い出来るものしか買ってこなかった。

携帯代を分割払いすることにはなんの違和感も罪悪感も持ったことがないのに、他のなにか大きいものを買うのに分割払いをするのは、罪悪感がある。

 

 

なぜだろう。

 

 

 

思い当たる節がいくつかある。

ひとつは幼少期、借金取りが家に来ていたこと。親族が闇金に手を出していた。

 

後々聞いた話だと、家に直接来てドアを激しく叩いたり、インターホンを何度も鳴らしたり、電話をかけてきたりしていたらしい。

少なくとも、小学校に入学するまでには解決していたのだが、

それまでに感覚として刷り込まれたことがいくつかある。

  • インターホンが鳴ると怖くて出られない
  • ドアをノックされると動けなくなる
  • 電話の着信音も怖くて出られない

長い年月をかけて、耳を塞いだり泣いたりすることは無くなり、必要以上に驚くことも少なくはなったが、

未だに心の奥には恐怖心が残り続けていて、ちょっとだけ震える。

 

 

そして思い当たる節のもうひとつは、高校生のときに受けた授業だ。

 

クレジットカードやデビットカード、そして闇金の仕組みについて学ぶ時間があった。先ほどの幼少期の記憶があったから、興味のある内容だった。

 

先生がひと通り解説したあと「一番いいのは現金払いかデビットカード」と言っていたこと、そして周りの大人から「クレジットカードは借金してるのと同じ」という言葉を聞かされていたことから、

私の中では「現金払い以外はすべて悪」という極端な結論が出てしまった。

 

その結果、基本的に現金またはデビットカードでの一括払いをしてきた。

 

でもここ数年でキャッシュレス化が進み、逆に現金払いは損をしているというような話もどこかで聞いたので、もう一度学び直す時が来てるのかなと思い、お金に関して教えてくれるセミナー(あやしくないやつ)を受けに行って色々聞いた。

 

その結果、「現金払い以外はすべて悪」というわけじゃないのだと分かった。しばらく染み付いていた考え方なので、キャッシュレス決済に対しての怖さや警戒はそう簡単に消える訳じゃないけれど、とりあえず理解はした。心が追いついていないだけ。

 

 

それからも知り合いの税理士と時々話したりする中で、度々お金の使い方の話題にもなり、さらに長い時間をかけて、キャッシュレス決済に対する怖さや警戒は少しずつ解かれてきた。

 

 

 

いつか買おう、と思っているものがある。

でも、いつになるか分からないし、自分の身体が想定よりも早い段階から少しずつボロボロになってきていると感じてるし、このまま先送りにしていたら、タイミングを逃し続けて買えなくなりそうだ。

 

それなら今、買ってしまおうじゃないか。

 

 

 

 

子どもの頃から、周りの大人からの言葉を聞き入れ、顔色を伺い、みんなが納得してくれるもの、褒めてくれるものにしがみついてきた。

 

未だに周りの人の顔色を伺って、自分の意見や気持ちを無かったことにしようとするのも、こういう所が影響してるのかもしれない。

本当にやりたいことのいくつかは、難色を示されたから興味のないフリをして素通りしてきた。

でももう大人だし、自分で決めてやってもいいんだよ。いいはずなんだよ。

言われたからやるんじゃない。言われたからやり始めたんじゃない。

自分で惹かれて勝手に始めたことだ。

 

やはり中途半端では嫌だから、始めたからには簡単に終わりにせず、人生に沿わす1つのパーツにしようではないか。

 

 

(購入を見送る可能性あり)

(この話の続編がなければ察してください)

 

タバコの銘柄覚える感覚で、漢方覚えるか

 

私はここ数年で、おそらく20種類近くの漢方を飲んできた。

 

決して漢方にハマっているわけではない。

ここ数年、常に何かしらの不調があり、

「今の症状だとコレに変えた方が良い」

「これはもう飲まなくても良さそう」

という感じで、その日その時に合わせて処方されてきた。

 

初めて漢方薬を飲んだのは、中学生の時だった。

漢方薬って大人が飲むものであって、自分みたいな子どもにはまだ早いものだと思っていた。継続して飲むようになるのは、もっと還暦に近いくらいの歳になってからだと思っていた。

でも継続して飲むようになった時期は想定していたよりかなり早く来た。これから減ることはあるのだろうか。ゼロになることはあるのだろうか。

 

 

特に中学生の時は、苦い苦いと我慢して飲んでるのにもかかわらず、他の薬と違って即効性があるわけじゃないから、

効果があまり実感できなくて、継続して飲む気力を保てなかった。

でも継続して飲まなきゃ効果が出てこないのが漢方薬。

ここ数年は、なるべく毎食分しっかり飲むようにはしている。

でも、こんなに年単位で継続して漢方を飲んでいるのは初めてだ。もう苦味には慣れた。

甘い漢方があるのかは知らないが、少なくとも自分が飲んだ中には甘い漢方は無かった。シナモンみたいな香りがして比較的飲みやすいものはあったけれど。

 

漢方薬は個性的な香りがするものが多い。

昔、かかりつけの病院があって、薬局も決まった場所に行ってたんだけど、いま思うとその薬局は色んな漢方薬が混ざったような、「ザ・薬」というような香りがしていた。

 

漢方薬の「香り」と書こうか、「匂い」と書こうか少しだけ迷う。くさいとも違うけど、別に好きな匂いでもない。使い方を間違えなければ体に良いものではあるから、「香り」って書いてるけど。

 

 

 

さっき、シナモンみたいな香りが⋯と言ったけど、それは名前の中に「桂枝(けいし)」が含まれる漢方薬を出された時に薬剤師さんが、

「桂枝はシナモンみたいな香りがするので、シナモンが苦手でなければ比較的飲みやすいと思います」

と、説明してくれたのを覚えているから。

名前の解説がひとつも無かった漢方についてはあまり思い出せないが、ひとつでも解説が入っていたものは、飲まなくなったものでも覚えているものがいくつかある。

 

ここで、漢方薬の思い出と、うろ覚えの知識をいくつか書き出してみよう。知識は間違えている可能性があるので、安易に信じないでいただきたい。

 

◎十味敗毒湯(じゅうみはいどくとう)

人生で初めて飲んだ漢方薬。10種類のなにかが体の毒をやっつけてくれる。ふりかけと間違えてご飯にかけてしまった。苦かった。

 

◎抑肝散加陳皮半夏(よくかんさんかちんぴはんげ)

抑肝散の負担少なめバージョン。「陳皮」はミカン系のなにからしい。ハッキリ香るわけではないが、陳皮のおかげなのか苦味も比較的ひかえめなので飲みやすくはある。

 

◎女神散(にょしんさん)

女神に散る、と書くのでカッコよく見える。女性が抱えやすい心身の症状を緩和するとかなんとか。

 

◎補中益気湯(ほちゅうえっきとう)

体を元気にするやつ。即効性のない栄養ドリンクを粉にしたものだと思っている。

 

 

いま思い出せたのはこれぐらい。

漢方薬の一覧表を検索して見てみたら「ああ、これも飲んだことあったな」と思い出すものがもっとあった。

 

飲んだことがない漢方薬のほうがもちろん多いのだけれど、これだけ色々飲み続けていると、

「この経験を知識に変えて自分のものにしないと損なのでは」と考えたりする。

そのように前向きに考えてないと、心が折れて漢方薬を継続して飲んでいけない、という感覚もあるのかもしれない。

 

最終的に最適な治療法と薬の判断は医師、薬剤師にまかせるとしても、少しでも漢方薬の知識があれば、なにか自分の体調管理に役立つことがあるんじゃないかなと思った。

 

漢方に関する資格や検定について調べてみると「漢方養生指導士」や「薬膳・漢方検定」など色々あることがわかった。

薬剤師の資格が必要なものや、学校に通う必要があるものなど、その道にいったことがない自分からすると取得が難しいものも多いが、「薬膳・漢方検定」なら市販のテキストがあり、独学でも受験可能なようなので、ちょっと考えてみようと思う。

 

しかし、資格や検定の勉強がある意味苦手である私。受験するところまでたどり着けるのだろうか。

 

merameremero.hatenablog.jp

 

 

漢方薬には番号が振られている。100何番とかまである。

コンビニのタバコにも番号が振られていることを思い出す。

タバコはお店によって番号が違うし、同じお店でも番号が定期的に変わることもある。銘柄そのものが無くなるパターンもある。

漢方薬は、番号が変わったり廃番になったりすることが滅多にないだろう。頻繁にあっても困る気がする。昨日まで飲んでいた漢方薬と、今日貰ってきた漢方薬の番号も色も変わっていたら戸惑うだろう。

 

でも、仮に漢方薬の勉強をし始めたとしても、番号と名前だけ覚えればいいってモノじゃなくて、成分とか効果とか、中身の情報をちゃんと覚えなければ日常の役にたたない、ということは分かっている。

実際に飲んで効果を体感してきたことは、強みになるかもしれない。

モヤモヤする点もなく勉強できれば。

 

 

 

いまこの記事にタグをつけている最中に思ったのだが、

「セルフメディケーション」という言葉があまり好きじゃないかもしれない。

もう世間的にはよく知られているのか分からないが、日本薬剤師会の公式サイトによると、セルフメディケーションとは「自分自身の健康に責任を持ち、軽度な身体の不調は自分で手当てすること」だという。

誰か何とかしてくれよ!と言うつもりはないが、「自分の健康に責任を持つ」という所が気になるのかもしれない。また自己責任論かよ、と思ってしまう。たしかに自分の体は自分のものだから、良くなるのも悪くなるのも自分の日頃の行いにより左右される部分が大きいのだろうけど、冷たさを感じてしまうのは私の考えすぎか。

 

【脳内リピートNOW(1)】いけない子/ともさかりえ

 

 

【脳内リピートNOW】とは

 

ラジオなどで初めて聴いた曲に惹かれたり、最近聴いていなかった曲が急に頭の中で流れ出したりして、しばらく頭から離れなくなることがよくある。

 

ここ数年、私は「いま惹かれた楽曲は、いまの自分の気持ちや状況と繋がるものがあるのではないか」と考えてきた。

 

そこで、いま惹かれている楽曲と、自分の内面との繋がりについて、自分なりに考察、分析したり、

楽曲を聴いたことで自分の頭の中に広がった映像も見つめてみようという試み。

 

私はそれを【脳内リピートNOW】と呼ぶことにした。

 

 

ここでは、歌詞の引用はしない。作詞家や作曲家の考えを想像したり、この歌詞は実際の人物をモデルにしていて…というような考察はしない。

かなり個人的かつ勝手な解釈で楽曲をみるため、歌詞や曲そのものが示す本来の意味とは異なる場合がある。

 

 

《今回の脳内リピート楽曲》

いけない子/ともさかりえ

2000年、シングル「少女ロボット」のカップリング曲としてリリースされた。

作詞、作曲、そして編曲も、シーナ・リンゴ(椎名林檎)が担当している。

 

楽曲はコチラ↓

open.spotify.com

 

 

 

《楽曲と自己分析》

ここからは、歌詞と曲の雰囲気も感じつつ、自分の感情との繋がりを見ていく。

 

 

◎なんともないフリをしすぎる

歌い出しから自分の感情とリンクするフレーズがあった。

「期待しなければ失望もしない」と、学生時代に先生から教わった。

いつからか「期待することは悪い事だ」と自分に言い聞かせるようになり、なにかを始めたり行動に移したりする前には、最悪の想定をしすぎるようになっていた。

最悪の想定をして、想定したものを頭の中で映像化して、何度も何度も流し続ける。

そして心を完全に絶望へと落とした状態で、実際の様子をみることになる。

結果、最悪とまではいかないけど、想定していた嫌なことがひとつふたつ起きて巻き込まれた時には、「ああ、やっぱり」と思って、心の中で呆れたり、ため息をついたりする。

最悪の想定をしまくって期待をゼロにしなければいけない、という感覚もなんとなくあるのだが、期待をゼロには出来ず、最悪の想定をしながらも「いや、大丈夫なんじゃない?」と良いことを期待してしまっている。

でも、落ち込んでも、その感情を表に出すことはできない。

「こんなことに期待してたのかよ」と誰かに嗤われることが怖い。

泣きたいほど落ち込んだとしても、泣いたら自分というものが崩れ去りそうで、人前でそんな姿を見せたら余計に痛いことをされそうな気がしてしまう。

相手に「自分のせいで失望させてしまった」と思わせてしまうかもしれないし。

…なんてまた、最悪寄りの想定を繰り返して、なんともないフリをするのが一番だという結論に至るのだ。

そうして、解決したかった問題が解決されないまま時は進む。

モヤモヤしたものを抱えて耐えながら、淡々と仕事をこなし、誰かと笑い合う。

問題の解決を諦めたわけでは無いから、解決しようと自分なりに出来ることはやってみるが、どうにもなっていかない。

 

 

 

◎また自分のせいで失われる

サビ前のフレーズは、自分への呆れと罪悪感を刺激する。

あの時から私は変わってないのか。

何も分かっていないのか。

「もう壊れるまで耐え続けるのはやめよう」

「自分の気持ちを伝えたら相手を不快にさせるから黙っておこう」

相反するような約束を、過去の自分と交わしていた。

しかしどちらの約束を守っても、失いたくなかったものを失ってしまった。

生活、人とのつながり、仕事、健康。。。

前にも同じようなことをしたのに、私は過去から何も学習しなかったのだろうか。なんでいつも自分ってこうなのかな。

 

 

◎誰かに誘われてるのか、誰かを誘ってるのか

サビのフレーズには3つの視点を感じた。

まず、生きることをやめてしまえば、すべてから解放されるのではないか、という視点。

そんな考えが、深刻な空気を少しも出さず、気軽な声で聞こえてくる。昼メシ食べに行こうよ、みたいなノリで。

…というふうにも思う一方で。

「そんなに迷うくらいなら、もう私のところにおいでよ」と、自分が相手を待ち構えているような視点も感じた。

両手広げて「もうなにも難しいことなんて考えず、この胸に飛び込んでおいでよ!」と。

必死に求めているというより、両手を広げて空中に漂っているような感じ。

あるいは、自分の外側へと広げている意識が、もっと身軽に生きたいと望んで、

「もうそんなこと考えずに、かなしむのもやめようよ。他に道があるって分かってるでしょ?」と、外へ連れ出すような視点。

ラクに生きようと思えば、もっと他にもたくさんの道があるんだと思い出す。

それでも、苦しむ方を選んでしまう。

 

 

◎疑いながらも求める「愛」

ひとりでいるのはさみしい。でもずっと人が近くにいると煩わしい。

私が求めてるものは、愛なのか?愛なのかもしれない。本当は疑いたくはない。

でも疑ってしまうのは、期待が裏切られたり、好きだった人に傷つけられたりした経験があるから。

人を好きになること、愛されたいと願うことへの罪悪感が、自分に対しての疑いに変わって、自分で自分を傷つけてしまう。

そばにいてほしいだけなんじゃないか。都合のいい時に会えればいいだけと思ってないか。

本当はそんなふうには思ってないはずなのに。自分の持つ愛を信じたいのに。

相手から欲しいものが愛なのかどうか。自分が相手に差し出すものは愛と呼んでいいのか。

私は愛を求めてないのかもしれないね、と思うことによって、愛されないさみしさ、かなしさを自分の中で曖昧にしようとしてる。

でもこのあとにまた、サビのフレーズが繰り返されている。

愛なのかどうか…と自分の気持ちや感覚に疑いの目を向け、誰かを好きになる自分が悪いのかもという罪悪感を抱えながらも、結局、心は好きな人を求めてしまう。

かなしく笑いながら照れ隠しをしているような切なさを感じる。

 

 

◎互いに互いの世界から消えよう

終わりに差し掛かる頃に出てくる、心の中での独り言のようなフレーズ。

ちょっと怖い雰囲気も感じるが、言葉通りの意味ではなさそうだ。

思い通りにいかない仕事や人間関係。

「自分の視界や生きている範囲内で、あなたの存在を確認出来ないようになりたい。そうすれば、いま抱えているこの苦しみからは解放される。」

そんな気持ちを感じる。

本当は、自分がいなくなれば全て解決するんじゃないか、とも思うが、それだけだと自分の世界からは相手が見え続けてしまい、本当の苦しみの解決にはならない。

お互いがそれぞれの世界から見えなくなり、思考回路から完全に消すことができれば、自分の中の世界では相手が死んだことになり、相手の世界でも私は死んだことになる。

しかしそれは人や社会との繋がりを断つことにもなる。それがさみしい事だとも分かっているし、断つことができない理由も絡まっているから、

あの少し怖い言葉は、心の中でふと浮かんでも、すぐに消えていく。

 

 

◎苦しむことをやめられない

終わりに向かうフレーズ。

日々苦しいことや辛いことが絶えない。

ほんの些細なことから、大きいことまで。

これ以上の苦しみは無いだろうと思いたいけれど、そうはいかなくて。

何度も理不尽なことに巻き込まれ、壊れかけてしまった自分もいた。

しかし、目の前のことに対して、諦めたほうがラクだと分かっていても、別の道があることを知っていても、諦めたくない。別の道を選びたくない。ラクだからってそっちに行きたくない。

私は「これ」がいいからやり続ける。

「あなた」がいいから愛し続ける。

苦しみたくて選んだわけじゃない。

好きで選んだ場所だから、そこで生じた悩みも苦しみも自分で背負って進んでいきたい。

自分の苦しむ姿を見て、周りが嗤うよりも先に、自分で自分を嗤ってやるのだ。自分の一番の味方は、自分自身だから。

 

 

 

 

《脳内映像と自己分析》

ここからは、楽曲を聴きながら頭の中に流れていた映像を思い出しつつ、自分の心のさらに深いところを見ていく。

 

 

◎ビルの何倍も巨大化した女性

街がオモチャみたいになっている。

車もミニカーサイズ。

人間も、自分の爪ぐらいの大きさ。

自分は部屋着のままで、街の上にあぐらをかいている。

でも自分では驚きもしない。焦りもしない。

なにも思わない。

 

 

◎街の上にあぐらをかき、あくびする

車が走っていようが、日が昇っていようが、人間が仕事していようが関係ない。

自分は誰のためにも動かず、働きもせず、なにもせず、ただぼんやりと寝ぼけ眼で遠くをみているだけ。

街の上にあぐらをかいて、時々あくびをして、ずっと眠そうにしている。

頭を空っぽにし続けて。

何も考えてないというより、何も考えたくないのかもしれない。

街を見もしない。人間のことも見守らない。

神様でもなんでもないから。

 

 

◎誰にも見えない自分

ビルよりも大きい自分が、街の上にあぐらをかいているのに、ビルも道路もなにひとつ壊されることがない。

人間たちにも見えていない。

太陽を遮る大きい影にもなっていない。

自分の体が透けてるわけでもないのに、全てがすり抜けていく。

でもすり抜けていく感覚もない。

 

 

◎元々は、ただの人間だった

街のどこかで、起きて、ご飯を食べて、家を出て、仕事をして、帰って、寝て。

他の人と変わりない生活をしていた。

変わりなく見えるように、生活をしていた。

 

 

◎考えすぎて無になった

日々の中で、他人のことを考えたり、誰かのためにと尽くしたり。

そうやって、上手くいくこともあったけれど、上手くいかないことも多かった。

 

私のしてきたことは無意味だったのか。

 

私がどれだけ大切にしても壊れて消える。

なにひとつ守れずに目の前から消えていく。

 

私が耐えても誰もこの苦しみに気づかない。

誰にも言えず、何処にも発散できず、気づいたら自分が街よりも大きくなっていた。

 

頭の中は無になった。

街や人間たちにとっても、自分の存在は無になっていた。

 

 

◎飽きたから戻ろうかな

ひたすらぼんやりと、何も考えずに街に座り続けていて、ふと思った。

街はずっと動き続けている。

いろんな場所でいろんなことが起きている。

はあ、私は結局、この中で生きていくしかないんだな。

つらいと分かっている。苦しいって思ってる。それでも快楽だけ味わって生きていくことは出来ない。

私はそうやって生きていくんだ。

こんな場所で誰にも気付かれずにぼんやりし続けていても、退屈なだけだ。

騒がしくても苦しくても、あの日々の中を私は生きていたいんだ。あの日々の中にしかない幸せがあるから。

…と、そんなところまで考えたかは分からないが、気づいたらいつもの自分の部屋で寝ていた。

夢だったのか、何だったのか。

 

 

 

《結び》

この曲を聴いた時の状況と心境。

  • 社会生活に疲れていた
  • 体の不調が長く続いていた
  • 疲労だけは回復しつつある
  • 悩み多き人生からは逃れられないな
  • 結論を急がずゆったりといこう
  • 簡単に諦めず絶望せず楽しくいこう

私はこれからも、苦しみながら楽しく生きていく。

でも、疲れている時はひたすら寝よう。

 

 

 

楽曲はコチラ↓

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久々に大相撲を見たらやっぱり楽しかった

小学5~6年生の時。学校から帰宅したらテレビのチャンネルを相撲の生中継に合わせていた。

 

同級生は皆、ドラマの再放送やアニメの話で盛り上がっていて、相撲を見ていたのは学年の中で自分しかいなかった。

 

私が相撲好きだと初めて明かしたのは三者面談の時だった。

普段、学校であまり喋らなかった私は、同級生たちから謎多き存在として扱われていた。

 

先生にも積極的に話すタイプではなかった。

休み時間は誰かが話しかけてこない限りは、基本的にぼーっとしてるか、自由帳に絵を描くかしていた。

 

先生はちょっと熱い人だったので、この子とは何を話したら距離を縮めることができるのかと、色々考えてくれてたのかもしれない。

そこで三者面談で、最近ハマっていることを聞かれたので、相撲を見ていることを話した。

先生は「しぶいねぇ〜」といいながら面白がってくれた。

好きな力士も聞かれて「今度また先生にも相撲のこと教えてね」と言ってくれた。

私は元々、好きなものも含めて「自分のことを誰かに話す」ということに対して罪悪感と恥ずかしさがあったので、それ以降、先生から相撲の事を聞かれても、あまりアレコレ話すことはなかったが、

小学校卒業時に先生は、卒業アルバムの寄せ書きに「すもうのお話聞かせてくれてありがとう!」的なことを書いていた気がする。

 

 

 

中学生になり部活動を始めたことで、相撲の生中継をリアルタイムで見れなくなったことから、自然と相撲を見なくなった。

「周りがアニメとか漫画にハマっている中で、相撲を見ることにハマっているのは渋すぎて、友達と楽しく話せないのではないか」と思ったりもしていた。

 

「歌番組見ても、最近のアイドルは顔も名前も分からないなあ」と思うのと同じような感覚で、

「いま相撲見ても、知ってる力士みんな引退しちゃってるから分からないだろうなあ」と思い、相撲を見たいとも思わない時間が、だいぶ長いこと続いた。

 

 

 

最近、心の余裕がなくて、テレビ番組や動画を見ることに疲れている。観れる番組はだいぶ限られている。

 

昨日も、どのチャンネルに変えてもなんか疲れちゃうことしかやってないなと思っていると、ちょうど相撲の生中継がやっていた。

「この名前聞いたことあるな」

「かのサンド出てなかったっけ?」

と分かった人もいたけれど、長年思っていた通り、知ってる力士はほぼいなかった。

 

 

それでも、やっぱり相撲って見ていて面白いなあと思った。

 

 

顔も名前も、その人がどういうスタイルを好んで取り組みしてるのかも知らないまま、

知らない人達のぶつかり合いを見ていた。

土俵際まで攻められても耐える粘り強さ。

押すだけじゃなく引いてかわす冷静さ。

逆に押して押して攻め続けていく力強さ。

昔から、詳しいルールも決まり手も、伝統や風習みたいなものもそんなに知らずに見ているけれど、昨日見ていても、自然とドキドキしたし声をあげそうにもなった。

 

 

面白さはそれだけじゃない。

 

タオルで体拭く時、顔から拭いて脇を拭く人と、脇から拭いて顔を拭く人がいるな。

美ノ海(ちゅらのうみ)っていう名前、これまでにもありそうだけど、意外といなかったんだ。

股間ってどうやって隠しきってるのかな。

こんな真上から映すのって昔もあったっけ。

ガストも懸賞旗出してるんだ。

国仲涼子ってこんなに相撲好きなんだ。

藤ノ川って小柄だけどこんなに強いんだ。

昔、勢(いきおい)って名前の力士いたな。

背中から落ちていったの痛そうなのに、何ともない感じで帰っていくのすごいな。

あっ!木村庄之助だ!

 

 

 

昔から、この力士だけを全力で応援してる!という時期もなく、

技術とか知らないけど、それぞれ違うスタイルでやってることは見ていてわかるから、それが面白いなと思いながら全体を見ていたし、今回もそのような気分で、自然と最後まで見ていた。

やっぱり相撲は見ていて面白い。

 

納得がいかなくて、想像が広がりすぎる

なにか興味のある分野で資格をとろうかなと思い、何度か勉強したことがある。

 

しかし、問題集や参考書を読み進めていくうちに、納得のいかない考え方や答えが出てくると、もう先へは進めない。

  • それだけが答えじゃないだろ!
  • 時と場合によって変わるだろ!
  • 人によるよ!
  • 無理やりポジティブに変換するなよ!

一度引っかかると、頭の中はその内容に対する疑問でいっぱいになる。

 

そこで本を閉じ、勉強をやめたものも多い。

 

そんな中で、ある国家検定だけはひとつ合格できた。でもこれは、テキストを見てイチから勉強したのではない。

実務経験があったので「なぜこれがこうなるのか」を理解していたし、テキストを見ても「これは無理あるだろ!」みたいに引っかかることもほとんど無かったから受験までたどり着けた。

 

 

 

 

学生の時からそうだった。

「なんでこれはこうなったの?」

「これはこういう風にはならないの?」

という疑問に対し、明確な答えや、そうなるに至った背景、物語などがあると理解できて、覚えやすくもあった。

 

だが、必ずしも全てのことに明確な答えがあるとは限らない。

そうなると先生は、

「これはこういうものだと思ってください」

と言う。

 

こういうもの?

 

そうなのか…こういうものなのか…。

 

こういうもの、こういうもの…。

 

これは、こういうものなんだ…。

 

理由とか別になく…こういうものだから…。

 

理由とか別に無いなんてありえな……いやこういうものだから…。

 

無理やり飲み込んで頭の中で、

「理解した!」

と叫ぶ。

 

しかし、モヤモヤしたなにかが残り続けて、そのモヤモヤが答えを消してしまうこともあった。

 

勉強に限らず、特になにも結論が出ないまま曖昧に終わる話し合いや、

流れを無視してねじ込まれたような背景などもそう。

なんか納得いかない!と思ったらずっと引っかかって先へ進めない。

何年か越しに思い出して

「やっぱりあの時のアレって、こうなるのおかしいよ…」

と、モヤモヤすることもある。

 

 

 

幼少期から既にそうだった。

 

未だに覚えているのは、3歳ぐらいのとき。

子ども向けの本に、簡単な迷路があった。

綺麗に舗装された道路を選んでいく迷路で、行き止まりの道には、工事中を示すコーンがあったり、穴が掘られていたりした。

 

迷路のルールは理解していた。

でも綺麗に舗装された道路には、特になにもない。ただグレーに塗られているだけだ。

なにもない道は面白くない。

 

 

私は、行き止まりの道だけを選んで、迷路を突き進んだ。

 

 

穴があっても、砂利が山盛りになっていても、重機が道をふさいでいても関係ない。

 

「こんなの、とんだらいいんだよ!」

 

「ほら、ピョーン!とんじゃうの!」

 

「ピョーン!いきどまりでもピョーン!」

 

 

 

この世に生まれてから3年。

 

 

 

行き止まりだと理解しているのに。

 

 

 

行き止まりを、行き止まりだと理解しているならば、

そこで諦め、別の道へ行くのが普通なんじゃないのか?

 

 

 

これは、ひねくれてるのか?

 

 

 

それとも、ピュアなのか?

 

 

 

物事に対して、答えをひとつと決めつけず、別の可能性を何個も想像するクセは、生まれつきあったのかもしれない。

 

ことわざ「人間万事塞翁が馬」を学生時代に教わって好きになったのも、すべて繋がってるように感じる。

 

 

 

ちなみに、謎解きや推理系のお話を見ることは少ない。

「なぜここでこんなことになるんだ?」

「アレとコレって無理やり繋げてない?」

と思ったところから余計な背景を想像しすぎて、勝手に先のストーリーまで描いて、先へ進めなくなるからだ。

リアルタイムでやっている番組や、演劇みたいにその場で行われているものであれば、観続けることができる。

途中で見るのをやめないかぎり、強制的に話が先へ進んでいくからだ。

 

「※この物語はフィクションです」が、

「これはこういうものだと思ってください」

と同じ働きをしているのかな。

 

AIと適度な距離で仕事する

デザイナーとして働いている。

 

AIで作られたものが世の中に多くなってきた。

パッと見ただけで「これはAIで作られてるな」と分かるものもあるけれど、

「これは人間の手で描かれてるっぽいな」と思う絵も、じつはAIで作られたものだった、という事もある。

 

AIで作られたもの全てを否定するつもりはない。AIと人間が協力してなにかを作り出すことには、新しい、楽しい可能性もたくさんあると思っている。

でも私は、自分が作るものにAIを使うことには慎重になる。

 

 

 

AIによって生成されたイラスト、特に人物やモノが含まれているものを、デザインデータの中にメインとして使うことには、抵抗がある。

 

自分が幼少期から大人になるまで、絵を描くことを趣味として生きてきたからか分からないが、「使ったら負け」と思ってしまう。

それに、AIが生成するイラストは、どこかで見た誰かの作品に似ていることも多いので、使うにしても怖い。

パクってるつもりが無くてもパクってることになってしまうかもしれないし。

そういう不確かなものを、お客さんの目に触れる場所や、金銭のやり取りが発生するモノには使いたくない。

 

 

 

私がAIで生成されたイラストを使う場面は、今のところ、身内や社内の人間しか見ない資料を作る時だけだ。

 

主に、世界観や雰囲気を説明する時のイメージ画像として貼り付けている。

でも、その貼り付けたイラストの通りにキッチリなにかを作るわけではない。あくまで、世界観と雰囲気を伝えるためだけのものだ。

例えば、「秋のテーマで○○を作ります」ということを伝えるとき。

もみじや栗のフリー素材を2個3個置くだけでもいいのだが、「え?なんかすごい寂しいもの作ろうとしてる?」という印象をあたえそうだなと私は思うので、「実際はもっと派手なもの作りますよ!」ということを示すためにイメージ画像として、AIで生成した秋の風景を貼り付ける。

商用利用もOKのフリー素材サイトで、イメージ通りの風景画像があれば、それを使う。

悪い影響の出ない範囲の中でだけ、使うようにしている。

 

 

AIで生成されたイラストを使いたくないのには、こだわりが強いというのもあるかもしれない。

掲示物を全体的に派手にするため、キラキラ✨️がたくさん描いてあるフリー素材を探していた時のこと。

「AIを使って、キラキラがたくさん描いてあるだけの素材を生成したらいいのでは?」と思ったので、生成してみた。

それっぽいものは生成された。でも、理想としているキラキラ具合にはならなかったので、結局AI生成のものは使わず、フリー素材サイトで見つけたキラキラ素材に、他のキラキラ素材を組み合わせて作った。

期限まで時間があれば、編集ソフトの中で理想とする形のものを作ることもある。

キラキラが多すぎたり、少なすぎたり、ちょっと大きさが違ったり、角度が違ったり、キラキラのトゲの部分が長かったり短かったり…そういう細かいところまで気になってしまう。それが理想通りになっていないと、納得がいかず、時間が許す限り、これでよし!と思えるまで作り続けている。

 

AIに対する指示の出し方が下手だった可能性もあるのだが、指示を何度も試して時間を費やすくらいなら、自分で作っちゃった方が早いと思った。

体が壊れるまで限界を超えて引き受けてしまうという私の良くない部分も影響しているかもしれない。

 

 

文字を含む掲示物などについては、絶対にAIでまるごと生成しないようにしている。

最近も、AIで生成された掲示物や広告がなんか変だぞと話題になっているが、AIは文字を間違えやすい。

この先、AIの技術が進化したら、その間違いも消えていくのかもしれない。でも今の時点では間違いが多い。こちらが「この文言でこういうの作ってね」とAIに指示を出したところで、ちょっと間違ったものが生成されてしまう。

生成されたものをしっかり見て「よし、間違ってない!」と確認できたら使っていいのだろうけど、確認が甘い人もいる。

言い回しとかの間違いならまだマシなほうだが、固有名詞に間違いがあるのに気づけないと、失礼になることがある。自分は名前を間違われやすい人間なので、特に気をつけたいところだ。

 

 

 

生成されたものを「間違えてないかな?」「おかしくなってないかな?」と隅々までチェックするより、自分で作ったほうが早いし、途中で間違いが出ても気づきやすいと思っている。

文字情報は自分で手入力する。

特に固有名詞で漢字に自信がなければ、公式の資料やサイトから文字をコピーして、間違いのないようにする。

文字を派手にしたい、立体的にしたいとか思ったら、編集ソフトの中でイメージ通りに作っていく。

ミリ単位で位置を調整する。

時間が許す限り、自分の理想と求められているイメージに近づける。

最後まで出来たあとは全体を見て再チェック。自分で作ったものなので安心しきらずしっかりチェックしている。

それでも人間なので、気づききれないものもあったりはするけれど、誰かを不快にしたり失礼になるような間違いは今のところしていない。

あるとしたら、「ここの文字の高さが0.5ミリくらいズレてる気がする!」「ここの色、なんか違うかも!」みたいな、あまり支障のないところの間違い。これは誰も気にならないんだけど自分だけしばらく気にして、心の中で悔しがってることがある。

 

 

 

こうして、AI不使用のものを作っている。

 

 

デザイナーの仕事はAIに奪われていくかも、みたいな噂を聞く。

AI生成の掲示物や広告なども増えている。

だから自分もいずれ職を失うのだろうか、好きなことなのに続けられない時がくるのだろうか、と不安になることもある。

 

 

でも「AIが作ったものはなんか嫌だな」みたいな声も聞く。

その声があるうちは、人間が作るものの需要もゼロにはならないだろう。

やっぱり人間が作ったものには、人間にしか出せない個性とか、良さとか、あたたかみがあるはずだから、

私はこれからも、求められているうちは、自分で考えて自分で作っていくことを大切にしたい。

 

 

 

AIが悪いと言うわけじゃないけど、適材適所というか、AIとはお互いの良さを活かして心地よく過ごしていきたい。

こうすれば便利に使える、こうなると問題が出てくる、という境界線のようなものを少しずつ確かめながら。