最近、ACのCMを好き好んで見てるからか、それとも日々の業務に追われてるからか分からないが、落ち込みが激しい。
ACのCMは、過去のCMについて年代ごとに調べるくらい好きで、最近は某局でよく流れてるのをチャンスだと思ってよく見ていた。
でも好きであるとはいえ、ACのCMといえば「災害時に流れるCM」というイメージが強く、トラウマ的存在でもあるので、続けてみることで好奇心を見たしながら心の傷口も広げている。見なきゃいいのだが、なかなか無い状況だからこそ見ておきたくなってしまう。
それがどの程度影響してるのか分からないが、とにかく落ち込みが激しくて危ない。落ちるだけでなく上がり方も激しい。
激しく燃え上がりながら駆けたかと思えば、一瞬で大量の水を被りその場に倒れ込む……みたいな。そんな感覚を繰り返してる。
この差が段々と広がっていった時にどうなるかは過去に何度か経験してきたから分かる。でも、もう繰り返したくない。差が開ききって落ち切る前に自分で止めておかないといけない。
いまは、ブレーキかけてギリギリ保ってる状態。
本当は誰かに寄り添って欲しいのかもしれない。
でも私はもう子どもでは無いから泣いてなどいられない、気がする。大人になったはいいけど、甘え方が分からない。子どもの頃でさえ、どうやって甘えてたかあまり思い出せない。
あと単純に、そうして気軽に頼っても許してくれそうな友達がいない。それでいいかもしれない。いつ連絡しても寄り添ってくれるなんて、人を都合良く使ってる感じがしてなんだか申し訳ないし、みんな自分自身のことを優先してほしいし。
寄り添っていて欲しい、なんて言えない。人の時間を邪魔したくない。
自分で人の邪魔にならないように、寄り添わせる物を探さないといけない。
衝動買いしたお菓子や玩具などは一時的に安心感を得られるけど、心に完全にフィットしてくれなくて、僅かながら隙間が空いてるように感じる。
でも衝動買い出来るならまだ余裕があるほう。余裕が無くなると「何もしたくないけど、このままだと消えてしまいそうだな」という恐怖と悲しみに襲われる。襲われるだけで抵抗が出来ない。ぼんやりしながら歩くぐらいしか出来ない。
さっき、まさにその状態だった。
こんな時は、又吉直樹さんが書いたエッセイを読んだり、作詞した歌を聴いたりする。
自分も生活のどこかで感じたことがあるかもしれない哀愁、面白さ、ささやかな幸せなどが、又吉さんの紡ぐ言葉とリンクする。又吉さんの優しさと想像力の豊かさに触れて、心があたたかくなり、自然と涙があふれる。
私にとって又吉さんは、心の故郷みたいな存在だ。
家庭環境が不安定で学校でも虐められていた頃に、又吉さんの存在を知った。又吉さんのエッセイ集「第2図書係補佐」を繰り返し読み、毎日、お守り代わりに大切に持ち歩いていた。又吉さんの本ならいくらでも読めた。又吉さんがどこかでオススメした本も読んだ。
高校生の時には授業で、教室の前に出て好きな作家を紹介する会があり、私は又吉さんを黒板いっぱい使って紹介した。(それを見に来ていた他教科の先生が後日、「発表に感動したので又吉さんの本を購入した」と私に報告してくれたのも嬉しかった。)
元々住んでた実家も家庭も形が変わってしまい、学校での思い出も良いものとは言えない中で、又吉さんの本を読んでいる時間は、数少ない安心出来る時間だった。家よりも落ち着く場所だった。
今日は、秦基博×又吉直樹「ひとり言」を聴きながら帰ってきた。ちょっと外が騒がしくても、その騒がしさも音楽の一部のように聴こえてくる。切なくもあるけどあたたかい。冒頭の又吉さんの語り部分から涙が溢れてくる。心が浄化されていくような感覚になって、空の星もいつも以上にキラキラして見える。
自分が生きてるのか死んでるのか、どこにいるのかも分からなくなった時、又吉さんの言葉に触れて、心の故郷にかえる。
そうして、ひとしきり泣いたら、暗くぼんやりしていた現実世界が、やさしく光り輝いて見えてきて、呼吸の仕方を思い出す。
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